チャッピーにホラー小説書いてもらいました……出来はいかに……

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さっく

今回はチャッピーにホラー小説を書いてもらいました!

たっく

チャッピーとはChatGPTのことやな……

さっく

主人公は私です。ジャパンホラーを意識してもらいました~
それではどうぞ~

変な帽子

六月の終わり、湿気を含んだ夜風がマンションの廊下を抜けていく。

夜勤明けの体は、エレベーターの鏡に映る自分の顔さえ他人のように思えた。

目の下に薄い影。整えてもすぐに跳ね返る前髪。
玄関前の共有スペースに、「ご自由にどうぞ」と書かれた段ボール箱が置かれていた。

住人が不要になった雑貨を時々出していく場所で、僕もそこから皿や本を拾ったことがある。

その日の箱には、皺だらけのスカーフ、欠けたマグカップ、古い辞書、それから——変な帽子がひとつ。

色は黒に近い煤けた紺。つばはやや広く、クラウンはぺしゃんこに凹んでいる。

素材はフェルトなのか、指で撫でると粉を含んだようなざらつきがあって、墨と古い線香を混ぜたような匂いがした。
「……誰がこんな時代遅れのを」


そう口にしながらも、僕は帽子を手に取った。なぜか、つまんだ指を離せなかった。

眠気のせいだろう。考えるより先に、帽子をバッグに押し込み、部屋へ戻った。

ワンルームの玄関から、靴を脱いでそのままベッドに沈む。

エアコンのタイマーを入れたとき、バッグの口から覗く帽子の暗い縁が、こちらを見ているように感じた。
「いやいや」


苦笑して、ベッド脇の棚に置く。棚の端が少し傾いているのか、帽子は勝手に回転して、つばの切れ目が玄関の方を向いた。まるで出口を見張る番人だ。


エアコンが鳴き始める薄い音の中、僕は眠りに落ちた。夢の中で、誰かが僕の頭に両手を添えて何かを探っていた気がする。髪をすくう爪の冷たさ。

耳の後ろで糸を引くような、ぎり、ぎり、という軋む音。

目覚ましの電子音で起き上がると、帽子は棚の中央に移動していた。もちろん、そんなはずはない。僕が寝ぼけ眼で置き直したのだろう。


軽くシャワーを浴び、鏡の前で前髪を押さえつける。水気を拭き取ると逆立って戻る、いつもの悪癖。ふと、帽子に視線が吸い寄せられる。


——被れば、収まる。

出勤時間に余裕はない。僕は帽子を手に取った。

内側に、擦れて読みにくいタグが縫い付けられている。「桂帽子店」。聞いたことのない名前だ。

汗染みの輪郭を指でなぞると、縫い目の間から一本、髪の毛のようなものが出た。

黒い、しかし光を吸うように鈍く濡れた線。摘まんで引こうとしたが、奥に続いていて、するりと逃げた。

玄関の鏡に映る自分は、思ったほど滑稽ではなかった。

寧ろ、目元の影がほどよく隠れて、落ち着いた雰囲気すらある。僕はそのまま電車に乗り、オフィス街へ向かった。

会社のエレベーターで同僚の中村がちらりと僕を見て、首を傾げた。


「さっく、今日……なんか、顔違わない?」
「寝不足でむくんでるだけ」
「そうか。帽子、似合ってるじゃん。てか、さっくって帽子似合うタイプだったんだ」


中村の視線は僕の顔を素通りして、帽子のつばの縁で止まる。

笑って手を振ると、彼は少し肩をすくめ、妙に遠慮がちな距離を取った。

午前中は特に問題なく終わった。デスクに座り資料の修正をしていると、斜向かいの女子社員がマグカップを持ち上げる手をふと止めて、僕の方を見た。

視線が合った——と思った瞬間、彼女は目を逸らし、机の引き出しを閉める。
「……なに?」


訊くタイミングを逸したまま昼になった。

コンビニで弁当を選び、レジを済ませようとしたとき、店員の少年がピッとバーコードを読み取る手を止めて言った。


「すみません、お客様。すごい反射してて」
「反射?」
「防犯カメラの画面が……いや、なんでもないです」


レジ横のモニターに、僕の背中とレジ台が映っている。僕の顔の位置は、塗り潰したように黒い楕円になっていた。

帽子のせいだろうか。帰り道、スーパーのガラスに映る自分の顔は、帽子の影のせいで輪郭があやふやに見えた。

家に戻り、帽子を棚に置く。つばが玄関の方向にぴたりと向き、空気がわずかに動いた気がした。

その夜、夢はさらに鮮明だった。古い店の中に、僕は立っている。

天井の低い、薄暗い空間。壁一面に帽子がかかり、同じ形のもの、違う形のもの、子ども用の小さなものもある。

奥から、年老いた男が歩いてくる。白い髭は短く揃えられ、右目は薄く濁っている。男は僕の帽子を見上げ、頭を下げた。


「返しに来たのか」
「いえ。拾ったんです」
「拾ったなら、拾われたのよ」
「……どういう意味ですか」


男は耳元に顔を寄せる。線香のような匂い。
「帽は顔の戸だよ。戸を外したまま眠るから、連れて行かれる」

はっとして目を覚ますと、スマホの画面には午前三時十二分の数字が白く浮かんでいた。

喉が渇いて仕方がない。台所で水を飲み、振り返る。帽子は棚の上で、つばを玄関ではなく、ベッドの方に向けていた。

翌朝、出勤前に帽子を手に取ろうとして、胸の奥が小さくざわついた。被る方に傾いている——そう感じてしまう。


「いや、今日はやめよう」


帽子をビニール袋に入れ、クローゼットの奥に突っ込む。扉を閉めると、内側から軽く叩かれたような音が一度、二度。

出勤途中、商店街のシャッターに「桂帽子店」の古びた看板を見つけた。

色褪せた緑の金属文字。「大正八年創業」。

シャッターの隙間からは埃の匂いが抜けてくるだけだ。看板の隅に、手書きの言葉が貼ってある。


——帽は顔の戸。戸を閉めて寝ましょう。
子ども向けの注意書きのようだが、ひどく古い紙だ。

会社帰り、同じ商店街のはずれで、古道具屋を見つけた。疲れていたのに足が止まる。

店内は所狭しと品が積まれており、ガラスケースの中にブリキの玩具、棚にはカメラや扇風機が並ぶ。

店主と思しき女性が、帳場の奥でラジオを聴いていた。
「桂帽子店って、ここらへんですか?」
女はラジオの音量を下げ、顔を上げる。


「昔はあったよ。先代が亡くなってから閉めた。どうして?」
「この前、変な帽子を拾って。タグに、その名前が」
「見せてみ」


僕がスマホで帽子の写真を見せると、女の眉がぴくりと動いた。
「それ、どこで?」
「うちのマンションの、不要品の箱に」


女はしばらく黙ってから、背後の引き出しから古い写真を一枚取り出した。

若い男がスーツを着て、笑っている。頭には、僕のものとよく似た帽子。写真の左半分だけ、男の顔が薄く白く飛んでいる。


「この人、よくこの界隈で見かけたよ。帽子が好きでね。夏でも冬でも被ってた。あるとき急にいなくなった。残ったのは、玄関先に置かれた帽子だけ」


「置いたのは本人?」


「さあ。誰も見ていない。ただ、翌日には別の人がその帽子を被ってた。運命の巡り合わせなんて言ってたけどね。そいつもほどなく引っ越した。行き先は聞かなかった」


女はそこで、言葉を慎重に選ぶように、唇を結んだ。


「この町じゃね、『あの帽子は人を目立たなくする』って噂があった。いい意味じゃなくてね。誰の記憶からも、少しずつ外れていく」


笑い話のはずだ。しかし、会社で感じた視線の空振りを思い出し、背中に汗が滲む。


「桂帽子店は、どうして閉まったんですか」


「先代が突然目が見えなくなったんだと。夜中にシャッターの前で倒れて、朝起きたら片方の目が真っ白になってたって。店を閉めるとき、紙にこう書いて貼ってったよ」


女は、店の柱に画鋲で留められている紙を指さした。茶色くなった短冊に墨で書かれた文字。


——顔戸(かおべ)を外すべからず。

帰り道、僕は帽子のことを考えないように努めた。

コンビニの店員は僕を見ても「いらっしゃいませ」と言わなかった。

スーパーでレジに並んでいると、後ろの列に並んだおばさんが、誰かに話しかけるように、空を見て頷いていた。


「被らないでね」
僕は振り向いたが、おばさんは僕を見ていない。

家に着くと、クローゼットの扉が少し開いていた。中の暗闇から、帽子の円い縁が見える。

手を伸ばす前に、ふっと部屋の空気が軽くなり、エアコンの風が止まった。床板が微かに軋む。
「……出てこないでくれ」


独り言を言うと、クローゼットの中で、布が擦れる音がした。僕は慌てて扉を閉め、椅子を援用してドアノブに立てかけた。


その夜、夢にまた老人が出てきた。今度は店の外、路地裏だ。雨が降っている。

老人は濡れた帽子を手に持ち、僕の頭にそれを当てる。


「被るか、閉めるか、大きく二つだ。戸を開けたまま寝るのは、どちらでもない。どちらでもないと、どちらでもなくなる」


「どちらでもなくなるって?」
「名前の話だよ。呼ばれない名前は、家に帰れない」

翌朝、出勤すると警備員に呼び止められた。
「すみません、こちら、落とし物では」


彼の手には、僕の帽子。
「なんで、それを……」
「昨日の夜、ビルの前に置かれていまして。中を確認したら、お名刺が」


帽子の内側を見ると、薄い紙片が汗染みに張り付いている。僕の名刺。そんなものを入れた覚えはない。


「僕のじゃないです」
嘘をつく口の中が乾く。警備員は眉を寄せ、ため息をついた。


「では、どなたの……。お持ちください。心当たりがある方に渡していただければ」


押しつけられるようにして、僕は帽子を受け取った。

内側の縫い目に、細い糸で小さな字が刺繍されていることに気づく。

「戸を閉めて」「夜は要る」。そして、最後の一列だけ、別の糸で縫い足されていた。
——さっく。

会社に戻ると、席に座っていたはずの中村が見当たらなかった。

同僚に聞くと、「昨日から来てないよ」とあっさり言う。

数日前、彼と缶コーヒーを飲んだ記憶が、薄紙のように頼りなく、指で触れれば破れそうだ。


昼休み、ビルの外で帽子を持ったまま立っていると、カラスが電線に並んでこちらを見ていた。

黒い目の光沢。頭の中に、かすかに声のようなものが流れ込んでくる。
——ふた。ふた。ふたをしろ。


僕は帽子を頭に乗せた。頭皮に冷たい輪が触れる。

次の瞬間、ビル風の雑音が少し遠のき、誰かが僕の耳元でゆっくりと息を吐く気配がした。

体の重心が一段深く落ちる。


帽子の内側で、何かが微かな音を立てて動く。髪の毛に似た細いものが、額の皮膚に触れ、こめかみをくるりとなぞる。


「……閉まったな」
自分でも驚くほど自然に、そう呟いた。

それから数日、僕は帽子を外せなかった。

外すと、部屋の中の視線が一斉に僕の顔の穴を覗き込むような、そんな錯覚に襲われるからだ。

会社の人たちは僕を見ても、誰かを思い出せないような顔をした。コピー機の列で、前にいた後輩が振り返って言った。


「すみません、あの、並んでますか?」
「並んでるよ」
「……すみません」


僕の声は届いているのに、彼は僕の位置を、自分の記憶の列に並べられない。

土曜日、意を決して、例のシャッターの前に行った。

「桂帽子店」。隙間から覗く暗闇の奥に、誰かの気配がある。耳を澄ますと、薄い布が擦れる音。
「すみません」


声をかけると、シャッターが内側から少し上がった。皺だらけの手が、そこから伸びて、僕の帽子に触れる。
「やっと来たか」


手の主は、夢で見た老人だった。白い髭は現実でも短く整えられ、右目は白濁している。


「この店、まだ……」
「閉めたさ。だが戸が閉まれば、裏口は開く。入んな」


シャッターがさらに持ち上がり、僕は中に招き入れられた。

店内は夢で見たとおり、低い天井の下、帽子で壁が覆われている。老人は奥の椅子に腰かけ、僕に向かいの木製の椅子を勧めた。


「それは、うちが作った」
「やっぱり」
「誰が拾ったかじゃない。誰に拾われたかだ」
「意味がわかりません」
「おまえさんが拾ったんじゃない。帽子がおまえさんを拾ったのさ。戸を閉めるために」


老人は、僕の帽子の内側に手を差し入れ、縫い目を指先でなぞる。


「戦の頃からだよ。ここの町は、空の音がよく降る。夜は名前が軽くなって、風に乗って出ていく。帰ってこない名前は、顔から剥がれ、家の戸口に立ち尽くす。だから、戸を作ってやる必要があった。顔の戸だ。帽は戸」


「空の音って」


「今でも聞こえるだろ。ビルのちょうど角で鳴る、あの細い笛の音。あれは空の隙間の音だ。そこに名前が吸われる。吸われて、軽くなる。軽くなった名前は、呼ばれても届かない。だから、おまえさんの同僚も、誰かの奥さんも、『呼ばれない顔』になった」


老人は、壁一面の帽子を見回し、何度か名が聞き取れないほど小さく名前を呼んだ。


「戻ってくる者もいれば、戻らない者もいる。戻ってきた者は、帽子に糸を足す。『夜は要る』と、『戸を閉めて』とな。最後の列は、その帽子が覚えてしまった持ち主の名前だ。おまえさんの帽子は、もうおまえさんを覚えた」


「覚える?」


「忘れてくれないということだよ。おまえさんが忘れられても、帽子はおまえさんを忘れない。だから、呼ばれる。『落とし物です』とな」


警備員の顔が浮かぶ。


「どうすれば、終わるんですか。僕の名前を、元に」
老人は首を横に振った。


「終わりは、人が勝手に作る。戸は閉めるしかない。土用の丑の夜、川の風が変わる。そこで一度だけ、戸を外せる。だが、外した戸の向こうから入ってくるものの面倒は、誰が見る?」


意味がわからないまま、僕は店から追い出されるようにして帰った。

外に出ると、午後の空は鉛色で、遠くで雷が転げていた。土用の丑は、明後日だ。

その間にも、薄く、いろいろなものが外れていった。母からのLINEは、二日前を最後に途絶えた。

こちらからメッセージを送ると、既読はつくのに返信はない。

電話をかけると、留守電が応答する。


「番号をお確かめのうえ、おかけ直しください」
番号は合っている。


会社でIDカードをかざすと、ゲートは開くが、出勤簿には僕の名前が残らない。

考課の面談リストからも消え、上司は「人手が足りない」と眉間に皺を寄せた。


夜、眠る前に帽子を外すと、窓の外で誰かが立っている気配がする。

カーテンが風で膨らむと、その影は頭の部分だけが妙にはっきりして、体は薄い霧に溶けていく。


——戸を閉めて。
——夜は要る。
耳の奥で囁く声。僕は帽子を被り直し、眠った。

土用の丑の夜は、妙に静かだった。蝉の声がいきなり消え、遠くの国道の音も布団で包んだように鈍い。

僕は帽子を手に持ち、マンション裏の川へ向かった。

護岸のコンクリートに錆色の苔。欄干の隙間から、黒い水面がゆっくりと動いている。


川辺には誰もいない。僕は帽子を地面に置き、ライターを取り出した。

火を近づけると、帽子は一瞬だけ柔らかくなった。内側の糸がぴん、とひとつ鳴る。
「燃えろ」


炎は確かに布に触れたのに、次の瞬間、火は帽子の輪郭に吸い込まれるようにして消えた。

夜気がわずかに温度を変える。肺に入る空気が重く、甘くなり、喉の奥で苦くなる。
——ふた。


川面がさざめき、小さな魚が跳ねた。橋の下から、湿った足音がゆっくりと近づいてくる。

顔のない者たちが列を作り、こちらを見ていた。

いや、見てはいない。彼らはただ、名前の重みのない頭を斜めに傾け、空の隙間に耳を向けている。


僕は帽子を持ち上げた。内側の糸が、指に絡む。
「……閉める」


そう言って、僕は帽子をかぶった。輪が額に触れると、川の音は一気に遠ざかった。

列をなしていた影がゆっくりと後ずさり、橋の下へ、暗闇の方へ吸い込まれていく。


代わりに、どこからか僕の名前を呼ぶ声がする。

母の声、中村の声、店の女の声。いろいろな声が、僕の名前を正しく発音しようとして、最後だけ誰か別の名前に滑っていく。


——さ……
——さか……
——さっ……


輪の内側で、糸がひとつ、またひとつ、結ばれていく。

僕の名前はそこに縫い止められて、夜に落ちないように重りをつけられる。重りは、帽子だ。

翌日、世界は少し整って見えた。会社の受付で名前を言うと、警備員が頷いた。


「さっくさんですね。こちらにご記入を」


出勤簿には、ちゃんと僕の字で僕の名前が残る。上司は「あれ、先週いなかった?」と苦笑し、僕は曖昧に笑って会釈をした。


ただ、鏡の中の僕は、帽子を外しても帽子を被っているように見えた。つばの影が、顔の上に残っている。

外に出ると、電柱のカラスがもう僕を見ない。

人混みの中にいても、僕だけは水の底に立っているようだ。音が、軽い。すべての音が、軽くなっている。


母から電話があった。


「さっく?」
「うん」
「この前、電話した?」
「したよ」
「あら、そうなの。ごめんね、忙しくて。ところで、あんた、帽子買ったの?」
「うん」
「そう。似合うかどうかは知らないけど、夜はちゃんと戸締りしなさいよ」


母の声は、いつもと同じだ。だけど、どこか、僕の輪郭を避けるみたいに滑っていく。


「行くね、今度」
「え?」
「今度、そっちに行く」
「うーん……誰?」


通話はそこで、微かに風の音を拾って切れた。

僕は、帽子を被り続けることにした。被っている方が、世界の形が崩れにくい。

夜、寝る前に玄関の鍵を閉め、窓の鍵を閉め、最後に帽子のつばを指でなぞる。戸は閉まった。


週末、再び古道具屋に足を運ぶと、女は僕を見るなり、首を傾げた。


「いらっしゃい。……あんた、前に来た?」
「帽子の人です」
「ああ。そうだったかな。ごめんね、最近物忘れがひどくて」


女は笑い、棚の奥から小さな木箱を取り出した。


「これ、桂帽子店の先代から預かったもの。『戸を外したくなったら、これを見ろ』って」


箱の中には、紙切れが一枚。「顔戸の作法」と書かれている。


——夜に外すは、夜に入る。
——昼に外すは、昼に漏る。
——顔は戸口、戸口は道。
——道に立つ者、名を問うべからず。


読み終えて顔を上げると、女はもう別の客と話し込んでいる。

僕は礼を言い、店を出た。紙の言葉は、意味があるようでいて、僕の役には立たない。

夏が過ぎ、秋が来た。帽子は季節に馴染む。

街の人々はマフラーを巻き、コートを着る。帽子を被っている人間も増え、僕は少し安心する。

しかし、彼らの帽子には戸の感触がない。僕の帽子だけが、時折、内側で糸が軋む音を立てる。


ある日、エレベーターで隣に住む子どもと一緒になった。彼は僕を見上げ、帽子の縁を指差して言った。


「それ、しゃべる?」
「え」
「夜、しゃべってるよ」
「なんて?」
「しめて、って」


僕は笑ったふりをして、彼の頭を撫でた。子どもはうまく笑い返せないまま、エレベーターを降りて行った。


その夜、玄関の前に「ご自由にどうぞ」の段ボール箱が戻ってきた。

中には、僕の帽子に少し似た、しかし形の違う帽子が三つ。

野球帽、女性用の丸い帽子、子ども用の小さな布帽子。どれも、内側に刺繍で「戸を閉めて」と縫ってある。
——誰かが、配っている。


配るのは、誰だ。拾い物の箱に、わざわざ帽子を並べる者。僕か? 

それとも、僕の前の誰かか? 帽子か?

冬のある夜、僕は夢を見た。桂帽子店の老人が、店の中で帽子をひとつずつ裏返し、内側の糸をほどいている。

ほどかれた糸は床に落ちると、すぐに消える。老人はため息をついて、僕の方を見る。


「重さが足りない」
「何の?」


「名前の。世の中のものは、軽くなるばかりだ。軽いと、風に負ける。負けるものは、戸がいる。戸を閉める者がいなくなると、戸は自分で閉まろうとする。おまえさんの帽子も、そうして動く」


「じゃあ、僕は」
「戸締りの番だよ。誰もやらないときに、やる人間が必要だ」

目が覚めると、枕元に帽子が立っていた。被せるでもなく、ただそこにある。

僕は起き上がり、帽子を被った。被り直したとき、内側の糸がわずかに緩み、違う文字が触れた気がした。


——ありがとう。


誰の声かわからない。だけど、その夜だけは、窓の外に霧の顔が立たなかった。

春になって、会社に新人が入った。挨拶のとき、新人の女の子が僕を見て、首をかしげた。


「前に、会いましたっけ」
「いや、初めてだと思う」
「そうですか。なんか、安心する顔だなって」


彼女の言葉に、胸のどこかが温かくなる。安心する顔——帽子の影に隠れているはずの顔が。


昼、彼女は社員食堂で僕の向かいに座り、唐揚げを箸で割りながら言った。


「夜、眠れないときがあるんです。名前がほどけちゃうみたいに、誰も私を呼ばない気がして。変ですよね」


「変じゃないよ」
「ほんとですか」
「戸締り、してる?」
「戸締り?」
「玄関と、窓と、それから……顔の戸」


彼女は目を丸くして、笑った。


「顔の戸? なんですか、それ」
「今度、帽子を見に行こう。似合うやつを」


彼女は少し考え、頷いた。
「お願いします」


その約束は、果たされなかった。彼女は翌週、突然会社を辞めた。

送別会もなく、メールひとつで。「お世話になりました」。


社員名簿の彼女の名前は、しばらくしてから完全に消えた。

僕の頭の中でも、彼女の顔の輪郭だけが残り、名前はやはり、うまく発音できない。

五月の終わり、僕は再び川へ行った。夜風は涼しく、欄干に触れると金属が指に冷たかった。

帽子を外し、欄干にかける。


遠くで、列車の音がした。


「——そろそろ、いいか?」
心の中で尋ねると、内側で糸がひとつ、軽く鳴った。
「まだだ」


僕は苦笑する。返事をするのは、僕か、帽子か、誰か、もう関係ない。


水面に映る自分は、帽子を被っていないのに、被っているように見えた。

つばの影は、もう消えない。


それでも、時々、僕は帽子を段ボール箱に入れて、共有スペースに置く。

紙に「ご自由にどうぞ」と書く。朝には、帽子は消え、夕方には、別の帽子が戻ってくる。


僕はそれを、誰かの玄関の前に置くこともある。誰かは拾い、被り、戸を閉める。

誰かは拾わず、戸は開いたまま、夜に顔を立たせる。


良し悪しじゃない。必要と不必要でもない。重いか軽いかだ。軽ければ、戸が要る。

重くなれば、戸は要らない。


人の名は、風の重みで決まる。僕は今、自分の名の重みを、帽子で支えている。

支えるために、影を受け取る。

今日、母から久しぶりに手紙が届いた。封を切ると、短い文が書いてある。


——この間はありがとう。帽子、似合ってたよ。戸締り、忘れないように。


母の文字は前と変わらない。封筒の口には、髪の毛が一本、挟まっていた。

黒く、光を吸うような線。


僕はそれを指に巻きつけ、ほどき、机の端に落とした。髪は床につく前に溶けるように消えた。

夜、寝る前に、帽子を被る。
内側の糸を指でなぞる。そこには確かに、僕の名前が縫い付けられている。


——さっく。


発音は簡単だ。短く、軽い。


だからこそ、戸がいる。戸を閉める者がいる。


僕は明日も、この帽子を被って歩くだろう。

駅へ、会社へ、商店街へ。桂帽子店のシャッターは閉まったままだが、裏口はいつでも開いている。


きっと、誰かがまた、拾われる。拾ったのではない。拾われたのだ。


帽は顔の戸。戸を閉めて、眠りなさい。
もしも、夜にあなたの名前がふっと軽くなったら、どうか思い出してほしい。


——変な帽子の、つばの影を。
——「落とし物です」と差し出す、見覚えのある警備員の顔を。
——「似合ってるよ」と笑う、誰かの声を。


それは、夜があなたを呼びに来たサインだ。
返事をしないで、戸を閉めること。
できるなら、僕の代わりに、しっかりと。

最後にひとつ、これは覚えておいてほしい。
呼ばれない名前は、帰れない。
帰れない名前は、顔から剥がれる。


剥がれた顔は、戸口に立つ。
戸口に立つものは、名を問うべからず。


——だから、どうか、戸を閉めて。
今夜も、帽子の内側で、糸がひとつ鳴った。
僕は眠る。戸が閉まった静けさの中で。

さっく

みなさんどうでしたか?

たっく

う~ん、なんか微妙……ちょっと難しいかな~

さっく

ちなみに表紙、挿絵も頼みました。内容はともかく、いい雰囲気が出てましたね!

たっく

内容大事やろ!

たっく

でも、タイトルの『変な帽子』って気になるんやけど……

さっく

…………では次の作品で会いましょ~

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